所有者の能力やイノベーションのおかげで、年月がたち、世紀が変わるにつれ、シャトー・マルゴーのワインは徐々に優れたワインになりました。18世紀初頭の土地管理人ベルロンによってなされた進展は特筆すべきものでした。
1705年、ロンドン・ガゼットが、ボルドーのグラン・クリュの最初のオークションを公表しました。そこに出品されたのはなんと、「Margose」の大樽230個です!ミレジメ1771は、クリスティーズのカタログに記されている最初の「クラレット」です。
コロニヤ侯爵ベルトラン・ドゥアはドメーヌを購入し、その当時の城館が有名なブドウ畑にふさわしくないと考えました。そのため、現在その姿が残されている建物を建設させたのです。
ラ・コロニヤ伯爵は城の建築を、当時花形だったボルドー出身の建築家ルイ・コンブに依頼しました。そして今日私たちが目にしている素晴らしい城が完成したのです。しばしば「メドックのヴェルサイユ宮殿」と称されるこの城は、フランスで非常に珍しいネオ・パラディアン様式の城です。
ラ・コロニヤ侯爵の子どもたちはドメーヌに興味を持たなかったため、ドメーヌはアレクサンドル・アグアドに売却されました。彼は、ボルドーの大きな城を購入した最初の銀行家です。その資産は莫大なものであったため、シャトー・マルゴーは彼にとって資産を増やすための方法ではなく、どちらかというと優雅で快適な滞在を楽しむ場所でした。
ナポレオン3世は、メドックの優れた赤ワインを広めることに貢献した一人です。彼は1855年からパリで第2回世界万博を開催し、メドックの高品質のワインを含むフランス製品を喧伝しました。
1879年、ウジェニー后のダムドヌールであり、アグアドの息子のひとりと結婚したスコットランド人のエミリー・マクドネルが、シャトーをピレ・ウィル伯爵に売却しました。この時代はメドックの収穫率が悪く、重ねて世界恐慌と隠花植物の病気による大打撃を受けていました。
フェルナン・ジネステ とその息子ピエールがシャトー・マルゴーの舞台に登場します。フェルナンはワインの仲介でその富を築きました。ドメーヌを購入するのに必要な資金を送金したのは、友人のひとりであるサイゴン市長を務めていたワインの輸入業者でした。ジネステ一族がドメーヌ全体を取得したのは、1950年ごろのことです。
1977年、シャトーはアンドレ・メンツェロプロスの手に渡りました。シャトーの柱廊を飾るイオニア式の柱が彼の生まれ故郷であるギリシャを想起させ、彼の鋭い知性を刺激し、マルゴーを再びトップの座につけることを試みる気をもたらしたのです。
「メドックのギリシャ人」の到着に非常に警戒を抱いていたフランスのワイン業界は、アンドレ・メンツェロプロスの死の後、さらにその懸念を強めました。この矛盾は、疑いを持った人々をアンドレ・メンツェロプロスがそのエネルギーと先見の明で説き伏せたことと、そしてシャトー・マルゴーに注いだ情熱により短い期間にワインの品質とドメーヌの評判を取り戻したことから生まれました。
シャトー・マルゴーの歴史と名声は、この土地に宿る卓越した力だけでなく、5世紀にわたり尽力してきた人々の力の賜物でもあります。しかし歴代の中でも、アンドレ・メンツェロプロスほど短期間で重要な役割を担った所有者はおそらくいないでしょう。1977年にドメーヌを手に入れた彼は、存命であれば現在100歳になります。
21世紀初頭の現在、ボルドーワインはいまだかつてないほどの成功を収めています。世界各地がボルドーに目を光らせているかのようです。グラン・ヴァンに対する需要は衰えることを知りません。世界のその他の地域の繁栄と発展がシャトー・マルゴーを競争の中に置き、何世紀もの間培われてきたテロワールが、1855年のプルミエ・グラン・クリュ・クラッセとして評価されたという、シャトー・マルゴーならではの地位を強調することとなったのです。